2017年3月3日金曜日

珍しく読書感想文「ティファニーで朝食を」


 先日の夕食後、モーレツにお腹が痛くなり、テレビをおともにソファで悶絶していました。チャンネルをポチポチと変えていたらたまたま映画「ティファニーで朝食を」をやっていたので痛みと闘いながら(笑)見ていました。
 オードリー・ヘプバーンの可愛らしさと、彼女の持つ絶対に揺るがない上品さというか気品、オシャレな衣装とニューヨークの街並みを楽しむ以外には、つまらないわけではないけれど特に心に響くような話でもなく、ユニオシさんという日本人(この名前どこから?)のひどい描き方に時代を感じるな~などと思っていたのですが(苦笑)、原作は全然違う話らしい。
 しかし…私は中学1年生のときに原作を読んだはずなのです。オードリーが表紙になっている新潮文庫で、ボロボロのそれを私は中学校の体育館で開かれたバザーで買ったのでした。カポーティなどという名前を知るはずもなく、いわばジャケ買いです(笑)


 読んだはずというのは、内容について「よくわからなかった」以外の感想がないからで、あれから30年経った今となっては、その内容が中一女子には難しすぎたのか、最近よく言われるように、訳があまり良くなかったからなのか(誤訳が散見されるらしい)。
 読み返してみようと思って本棚をざっと見たのですが、捨ててしまったのか売ってしまったのか(かなりボロボロで、売れるような状態ではなかったはずだけどなぁ)、見当たりませんでした。
 そこで、30年前には想像もできなかったような素晴らしい密林?熱帯雨林?で、今度は村上春樹の新訳をポチってみました(30年前を考えると世の中の進歩は恐ろしい)。


 新訳新訳と言うわりにはところどころナゾの言葉遣いもありましたが、すごく明晰で読みやすい文章でした。思っていたより、乾いてパリッとしているというか。30年前に読んだのはもう少しわかりづらい文章だった気がします。あと今回は先に映画を観てしまっているので、映像で補っている部分があるかもしれないです。
 でも、もしこの新訳で読んだとしても、13歳の少女がこの話を面白いと思ったかどうかはちょっとわからないな。
 でも、不惑を過ぎて(自分にこの表現を使う日が来ようとは…)、妻母主婦生活にどっぷり漬かってしまった今の自分が読むよりは、13歳の頃の自分のほうが、この小説に素直に入り込めたかもしれない、とも思う。

 この小説は1958年に発表されているのだけれど、ここに出てくるホリデイ・ゴライトリーが、自分が生きる選択肢として(金持ちの)男性に頼る(散文的に言って)以外の選択肢を選んでくれたらなぁと思うのは21世紀だからかな。ま、自立して自分でバリバリ働いて生きるわ!オトコなんか要らないわ!とかヒロインが言い出したらこの小説はまったく面白くないけど。というか話が成り立たないけど。でもさ、金持ちでも貧乏でも、男と一緒にいたらどんな男といたってそれはある意味では(あくまでもある意味では)、「空の上で暮らす」のと同じだと思う。テキサス州チューリップでもリオでもブエノスアイレスでも、アフリカでも。
 それとも、彼女に「落ち着き場所」が見つかっていればいいなと思うのは語り手の「僕」なのであって、ホリー自身はそんなことテンから思っていないのかもしれない。彼女は「本物のまやかし」だから、「いやったらしいアカ(なぜ村上春樹はこの言葉をカタカナの「アカ」にしたんだろう?原文は何になってるんだろう?)」を抱え続けたまま、落ち着き場所なんか求めず、流れ続けていくことを選ぶのかな…とも思う。
 ま、とにかく、ホリデイ・ゴライトリーはきっと死ぬまでダイヤモンドが似合わない女である、そこがこの小説のひとつのポイント(すべてではない)なのかもなぁ。

 原作者のカポーティは映画化に際してオードリー・ヘプバーンが主演ということをすごく嫌がったと何かで読んだけど、小説を読めばさもありなん、と思う。だって全然違う、違いすぎるから。映画のヘプバーンはとても素敵だったから、映画と小説はまったくの別物と考えるのが正解だと思います。語り手の「僕」も、全然違うし。
 彼女の容姿に関する描写がとても魅力的なので、原作を読むとみんなそれぞれのホリデイ・ゴライトリーを思い浮かべるんじゃないかと思います。性格は…散文的に言って、女友達としては一緒にいられなさそうだけど、そうじゃなかったら魅力的かも(笑) というか彼女は友達なんか欲しくなさそう。自分でも、ひとりもいないって言ってるし。
 ただ、自分を探しに来たドクに対しては(散文的に考えてひどい男だけど)誠実に向き合って自分が戻れないことを伝えてから追い返しているみたい。それが彼女にとって、物語にとってどういう意味を持つのか、ちょっとまだ考えがまとまらないのだけど。
 妊娠しているらしいのに馬に乗るエピソードも、彼女の性格を描いているのか、物語全体に影響させているのか、どちらなんだろうと思う。(不法逮捕と言い切る部分と同様に使われているエピソードなのかどうか、それともフレッドや猫と同じなのかという意味)
 そう、猫(散文的にはあの終わり方で胸をなでおろした・笑)。
 猫は、自分から出て行ったら追いかけちゃいけないけど、そばにいてくれるのに追い出したらいけない動物だと思う。でもそこまでして、めちゃくちゃ後悔しながらも、探さずに旅立つ、それがホリデイ・ゴライトリー、トラヴェリングなのかも。

 村上春樹はあとがきで

 主人公の「僕」がホリー・ゴライトリーの有していたイノセンスの翼を信じ続けるように、信じ続けようと心を決めたように、僕らもまたこの『ティファニーで朝食を』に描かれた美しくはかない世界を信じ続けることになる。寓話といってしまえばそれまでだ。しかし真に優れた寓話は、それにしかできないやり方で、我々が生きていくために必要とする力と温かみと希望を与えてくれる。
 そして小説家トルーマン・カポーティは、僕らに優れた寓話とはどのようなものであるかという実例を、鮮やかに示してくれたのである。

 と書いています。
 なるほど。そうか。そういうことか。
 そのあたり、どうも納得できずにいろいろ考えてしまうあたりが、(ホリーと同じ)オンナだからってのもあるし、自分がオバサンになってるというのもあるのだろうなぁ。イノセンスで生きてくのはけっこう辛い…と思ってしまうあたりというか。そこらへんが、そう、ダイヤが似合うようになる年齢の前に、この小説を読んでおくべきなのではということでしょうか。

小説の中で一番美しいと思った場面のイメージはこんな感じ

全く関係ない余談:
 中学の体育館で開かれるバザーは、当時その中学に通うすべての子ども達にとって胸沸き踊るものすごい素晴らしいイベントで、私も大雨をものとともせずに中学へ行き、沸騰状態で見て回った思い出があります。そのとき買ったのは、くだんの「ティファニーで朝食を」の文庫本、色あせた英語のディズニーコミック古本(いつなくしてしまったんだろう)、今思えばB級品の布地をどこかで手に入れた保護者が、バザー用に安く買って作ったのであろう、正規タグのないオサムグッズの手提げバッグ、そして、折り返すと、ピンクの花柄がついたミントグリーンのギンガムチェックが見えるようになっている、黒いバスケットシューズ。あんこは嫌いだったのに友達のお母さんが作っているからと無理して食べたら意外にもおいしかったお汁粉。雨の日で寒かったから、よけいに温かく感じたのでしょう。あれは理科室で食べたのだったか、技術室で食べたのだったか。なんとなく薄暗く、窓ガラスが曇っていたのを覚えています。





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