2015年5月30日土曜日

珍しく読書感想文「金平糖の降るところ」※ネタバレてんこ盛りです


江國香織さんは、大学時代に部室のゴザに寝っ転がって読んだ「きらきらひかる」からずっと好きな作家です。
たくさんの著作を出されていますが、どの作品も登場人物の設定が似通っていること、文体に独特の美しさがあり特に女性から好かれること、などから「江國ワールド」などと呼ばれているようです。
「きらきらひかる」を中心点とすると、その前後ではだいぶ登場人物の設定が変わってきていると思いますが、それは江國さんが結婚したことと大きく関係があるのではないかと思います。
薄っぺらい説明をすれば、江國さんの作品は、だいたいは女性が主人公で、その女性はだいたい結婚していて、ほとんどが不倫をしているわけですが、その似たような設定のなかでも「金平糖の降るところ」はひとつ突き抜けてるんではないかと。
お断りしておかなくてはいけないのは、全部の著作を読んでいないので、もっともっと秀作があるのかもしれません。あくまでも私が読んだ範囲での感想文ですのでその点ご了承ください。
話を戻しまして、この作品のなにが他の作品よりも「ひとつ突き抜けてる」のか。
それは、犬の散歩をしながらふとひらめいたのですが、あの夏目漱石の「こころ」とどっか似てる! と思ったからなのです。枝葉まで見るとまた違ってくるかもしれませんが、主人公・佐和子(カリーナ)だけに焦点を当てると「先生」との共通点があるような。
ただしこちらの舞台は21世紀で、男性じゃなく女性です。そしてエゴイズム(以下、エゴ)の方向性が違う。
「こころ」は日本の高校に通った人ならほぼ誰でも読まされた小説ですよね。
私は未だに夏目漱石が何を書きたかったのかわからず、それゆえに高校を卒業してから20年以上経ってもまだ、たまーに読み返したり、分析本とか買ったりしちゃうのです。
今回「金平糖の降るところ」と比較…いや、比較というのはちょっと違うな、一緒に考えてみたときに、「こころ」は単なるエゴの話かとずっと思っていたけど、「金平糖」のおかげで「こころ」という小説には恋愛という設定は必要な要素だったのかも…と考えるようになりました。人間のエゴは恋愛という形で描きやすい、とか?
そして「金平糖」のほうは、もっと恋愛が全面に押し出されているけれど、現代の結婚という形と個人のエゴと、を抜きには考えられない小説なのではないかと思いました(「こころ」のほうはそこまで結婚生活そのものが必要なテーマではないはず)。恋愛という、純粋であってほしいのに、どうしようもなくエゴが出るという、そこが人生なのだと思います。そして男女の違い。
「女性」というカテゴリで生きている人間(身体的に女性なんじゃなく、精神的に女性ってことが言いたかった)は、たぶん男性カテゴリで生きてる人よりも愛してる相手に合わせるというか、とことん言うこと聞いて生きていくというか、それで自分が満足するというか、そういう部分がすごく大きいんじゃないかと思います。
でも、あまりにも向き合いすぎると自己が破たんする。相手も壊しちゃう。だから破たんしないように、壊さないように、何かに逃げて、日々を送っているわけです。



たぶん、江國さんは「きらきらひかる」の笑子みたいな結婚があると思っていたけど、やっぱり結婚生活ってそれはないんだなぁとどこかで思ったのかもしれない。
アジェレンのようなまっすぐな純粋な恋愛がよかった、という感想をネットでたくさん見たのですが、笑子の足元にも及ばないでしょう。アジェレンの恋愛は「純粋」というくくりで描かれたものではないはずです。
「神様のボート」の主人公・葉子は言うなれば佐和子(カリーナ)の前段階なのだと思います。
江國さんのいくつかの小説は、無限ループのように、ぐるーっと繋がっている気がする。
「流しの下の骨」のそよちゃんは、佐和子と同じ。実家に戻るか男を作るか、それは江國さんにとって大した違いではないのだと思います。
さらには「綿菓子」に出てくるおねえちゃんも、形を変えたそよちゃんであり佐和子である。そう言ってしまったら、だいぶ違うけれど「こうばしい日々」のおねえちゃんもそうかもしれませんね。



達哉の人物造形は…これまた暴論かもしれませんが「光源氏」を彷彿とさせます。源氏物語も、日本の学校に通った人なら誰だって「いづれの御時にか…」部分だけは読まされたはず(笑)
光源氏って、イイ男なのかもしれないけど、結局のところは女性にとって…紫の上にとって「はぁあぁあああー」ってため息つくようなヤツでしかないわけです。愛してても、愛してるからこそ、なんでもいいんですが結局のところ。
佐和子を迎えにきてミカエラとヤっちゃうところなんかまさに光源氏!
いろんな女性と繋がっていても佐和子が一番、という設定も似ていますね。
ただし、平安時代には女性の心情はどうあれ、いろんな女性と繋がることが悪ではない時代だった。現代は一応、結婚したらよろしくないということになっています。でも佐和子の一番のポイントは、たっちゃん(達哉)がいろんな女性と繋がっていることではなく「舌打ちは相手に対する侮辱よ。そしてね、それはたっちゃんの愛の言葉とそっくり。知ってた?そのこと」という部分であるということ、これは異論がないと思います。現代では結婚後にいろんな女性と繋がることがよろしくないからこそ、佐和子にとってはそれは大した問題ではない。
日本人男性に、たっちゃんと同じタイプの人は実にじつに多いと思う。いや、外人とつきあったことないからわからないんですけど。男はみんなそうなのかな?だから、とことん向き合おうと思うと破たんしちゃうんですよね(笑)
結婚すると、相手への愛の強さで破たんしてしまうんじゃなく、舌打ちと愛の言葉が同じってことで破たんしてしまうんだ、ということに、江國さんは辿り着いたんじゃないかと思います。
「きらきらひかる」の睦月には、少なくとも舌打ちはなかった。だから笑子は、続篇(ケイトウの赤、やなぎの緑)でも彼とのつながりを持続できたのかもしれない。



ミカエラについては、まだうまくアタマの中で道筋が立っていません。なのでここでは触れずにおこうと思います。ただ、三角関係というようなものではなく、どちらかといえば鏡の国の自分のようなものなのかもしれないな、と思います。



まだ結婚していないひとには、結婚なんか全然関係ないわっていうときにぜひ「きらきらひかる」を読んでもらいたいなと思うし、逆に「金平糖の降るところ」は結婚してからでいいと思います(笑)

私にとってこういう駄文を書くのはアタマの体操です。ぎゅっぎゅっとアタマの中を動かして、スッキリ風通しをよくする作業。
最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。

「金平糖の降るところ」江國香織 初出「きらら」2009年5月号~2011年5月号
単行本:2011年10月3日 初版 小学館





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